
昭和30年頃から事業所(製品事業所かもしれない)で作業員とその家族のため福利厚生の一環として映画の上映をしていた。地元の人も子どもを連れて軌道を歩いて見に行った。終映後歩いて帰る際に眠たくてぐずりながら帰った。(阿部敦雄氏談)幡多農業高校生のころ夏休みに製品事業所で毎木調査(標準値を調べる)のアルバイトをやった。職員が当時珍しいプラスチックの三角定規を使っているのを見た。(稲田美文氏談)

(1)川崎営林署藤ノ川(担当区)事業所
左は平成14年発行の地形図(西土佐村役場では最新地図)には事業所に架かる橋が記載されている。大規模な作りで来客用の部屋、トイレ、風呂、池が作られていたようだ。敷地に一升瓶、お釜、皿が落ちている。上流端に川の水が溜まっている場所があり、道から見えないので渡り鳥が来る場所となっている。この事業所は昭和44年まであった。(稲田氏談)


➀架橋台(吊り橋が架けられていた)

吊り橋だった証拠にワイヤーが残されている。「緑の山を育てよう 川崎営林署」の丸い看板が当時の栄華を語っている。橋を渡ると両岸石垣で作ったまっすぐな広い参道がある。

②橋より下流側にある建造物の礎石のようなコンクリート台(右)と残されたドラム缶。向こうに参道の石垣が見える。

③トイレあと(くみ取り槽)

お釜とバケツ

④ひょうたん型の池(浮島になぞらえた石がある)

⑤風呂場跡?
四角い洗い場の上にタイルを貼った台座がある。 台座には五右衛門風呂の鉄の風呂桶があったと思われる。(⑩と類似)

⑥かまど跡(複数の跡あり)

⑦コンクリート製通路(約7m)上流側に進むとゲストハウス?的な建物の前まで延びる。

⑧ゲストハウス?
20坪弱の区画があり、その中にトイレらしき跡が見られる。河原に四角に出っ張り、それを立派な石垣が支えているように見える。大勢の者が使うことを想定していない造りになっている。

⑨トイレあと
ゲストハウスの横(上流側)にあり、⑩の風呂の間にある。風呂場の近くにトイレはつきもの。

⑩風呂場跡?(レンガ)
⑤と類似したつくりである。 レンガ上部には丸い風呂釜を据えたであろう弧を描いた(赤い線で記した)台座の一部が残っている。また、下部には薪をくべたであろうカマドが残っている。


⑪謎の台座(6つ並んでいる)
四角く石で組んだ台の上にセメントで四角い縁取り整形をしている。内側にむかって斜めになっているので手洗いおけ?のかわりだったのか?写真は一番状態の良い台座で、これ以外は台座中央に杉の木が生えている。事業所撤収の際にわざと植えていったのかもしれない。

⑫川のたまり
➀の吊り橋の下とは違い穏やかな様子。撮影は冬だったので渡り鳥が十数羽いた。夏場は小さい子どもが泳ぐにはもってこいの場所である。道から見えない穴場的な存在。
事業所から市道を見たパノラマ写真⇩
道路拡張工事の作業道があるので川に降りられた。冬は水が少ないので長靴で川を渡ることができる。

(2)製品事業所(育苗所)
材(丸太)をつくる場所で種苗をつくっていた。昭和60年頃まであったらしい。作業をする人の家もあったようだ。大きな2つに分かれた風呂跡や集会ホール的な建物跡、こぢんまりとした事務所らしき跡や倉庫、上下二段で階段状の水槽や単体のコンクリート製の水槽が下流側の上方に点在している。この場所にも一升瓶があるので山での楽しみはやはり酒だったようである。市道から対岸には水位の少ない時期に長靴で渡ることができる。事業所と違い、ここには川中に立派な橋脚がある。軌道がしかれていたことはないようで、車用の丈夫な橋を架けた跡と思われる。

➀橋台

市道から

川中から

対岸に渡ってから市道側を見たところ
②油倉庫
製品事業所ができた後につくられた新しい建物と思われる。 中は水が貯まっていた。

③四角の貯水池
貯水池。コンクリートで固めていないので、トイレではないと 思われる。何らかの排水等がいったん集まっていたのかもしれない。

貯水池を背に油倉庫方面(東方向)をみたパノラマ写真⇩

④薬品瓶や碍子(がいし)
電線を引くための碍子が2つ見つかった。 薬品瓶も複数落ちていた。機械や道具、消毒等の作業場があったのかもしれない。

⑤あんか
今は電気あんかがあるが、昔はそれ用の炭、豆炭(まめたん)を使ったもの。そのあんかのカバーが当時を忍 ばせる。

⑥一升瓶
山の仕事のあとに欠かせない必須のアイテム。

⑦お風呂
二槽に分かれており男女別の構造か。背面にかまど。2つトイレ跡?(左)と風呂排水槽?(右)。

⑧トイレ跡らしきもの
上の写真に写っていないトイレの肥だめ槽。浴槽が2つ、トイレが 2つあるので、作業員の官舎には風呂がなかったので家族用として男女別であった可能性が高い。

⑨コーヒー缶
缶底の賞味期限は1997年9月7日

⑩コンクリート台
矢印の風呂の上段敷地にある謎のコンクリートの枠。何かの建造物があったようだ。壊した廃材があり、苔むしている。公民館のような集会所的な広さがあり、植林もされていないので閉所近くまで使われていたかも。


⑪セメント水槽

⑫セメント水槽

⑬セメント水槽 一番高いところにある。

⑭コンロ 国際コンロと書かれたガラスの燃料瓶。

⑮舎屋あと 基礎の形をたどると出入り口がへこんでいるので、玄関アプローチがあった?のかもしれない。

⑯倉庫跡1 基礎が壁のようになっている。四角いCの形。
⑰倉庫跡2

出入り口付近にあるパイプとレール
⑱山側から川側を見た写真

⑲二段受水槽

用途はわからない。蛇口がついている。
⑳上流側の様子1
立派な道がついている。両脇は苗床だったか。

㉑上流側の様子1
さらに奥の場所

㉑上流側の様子2 パノラマ写真

㉒上流側の上段と下段の様子 下流側を見たパノラマ写真(右奥が藤ノ川川)

㉓猪のお風呂(猪の泥浴び場:通称=ぬたば) 山に入ると猪のお風呂や、水田で米を食べた跡を見ることができる。猪が森林軌道の跡を獣道にして、道を掘り返してミミズを探した跡など沢山ある。掘り起こされた際に石が斜面を転がり、さらに大きな石にぶつかり、下の車道やJR線に石を落とすこともある。山際に車を停めるときは注意したい。

㉔銘のついた道具たち(この場所にあったわけではない)

「国際石油ガスコンロ」の銘が見える。生活感が感じられる。⑭の場所にあったもの。 柄長ひしゃくの杓の部分があった。「藤担」と書かれている。藤ノ川担当区の略だろうか?まさに存在感が感じられる。⑯の場所付近にあったもの。
(3)署員・人夫官舎跡(事業所)
藤ノ川建設手前の左にある、ガードレールのある坂道を上がると作業場と広場が現れる。集合住宅が4棟あったように地形図(平成14年版)に記されている。当時、長瀬地区在住だった70歳代の方の話によると、若い頃用事でここを訪ねると、人夫が暇そうにタバコを吸っていたそうだ。お天気は雨が降りそうで降らない曇り。そこで皮肉っぽく「お国から給料をもらっている人は昼間、働かなくてかまわないんですね」すると人夫から、「普段から十分働いているから大丈夫だ」的な返事が返ってきたらしい。ピーク時は15戸が住んでいた。


敷地の南側に集合住宅(長屋)を取り壊した跡が残る。北側にあった事務所に当たる建物は今も残っているが、物置状態になっているようだ。この状態は、あちこちの事業所跡でも見られる。同じ旧西土佐村の黒尊でも同様である。この場所の職員・人夫官舎(事業所)は昭和60年ころまで機能していたそうだ。その後も人は住んでいたようであるが、平成になっていなくなった。長屋は平成の終わりに老朽化にともない取り壊されたようである。(令和3年撮影)

敷地南端に残る、消防用のホース格納箱。南側の民家に抜ける近道がある。民家用を兼ねて設置されたかもしれない。近道側から見たホース格納箱のところには「山」と刻印が入ったセメント製の赤く塗られた杭があった。たぶんここまでが、営林署の敷地であると思われる。

・ 事業所の全景
建物の側面に集合解散場所の看板が,ガス管に挟まれていた。


・作業倉庫の全景
伐採や落石等に伴う立て札の数々が保管されていた。
「藤ノ川へ10㎞」
「この林道は専用林道です。落石の危険がありますので・・・・」
「一般車両の通行は禁止します」など


(4)藤ノ川最後の事業所(現集会所)
(3)の署員・人夫官舎跡(事業所)のあと。平成7年まではここが藤ノ川事業所だった。今は、地元の集会所(藤ノ川農林漁家活動促進施設)になっている。
当時の雇用体制 正規雇用:基職=常勤月給制、 準正規雇用:技能職=定員内技能職員(試験を受け常勤も可) 非正規:「常用」=3ヶ月以上で頻繁に仕事がある 「定期」=1~2ヶ月の雇用 「日雇」=必要なときに雇われる

○藤ノ川を管轄していた川崎営林署は昭和7年1月1日に中村、大正の営林署の一部を分割して設置され、担当区と製品事業所があった。 ○藤ノ川は下山郷二十一ヶ村の一つとして古くから郷土を築いた。明治23年、町村制により津大村に。津は津野川、大は大宮をさす。昭和34年西土佐村となり、平成12年四万十市。 ○太平洋戦争中、管内の天然ヒノキの良材は藤(マルフジ)刻印され飛行機用材として徴用された。 森下嘉晴氏「たんね歩記」の「西土佐藤ノ川物語」より