6.中土場と軌道車庫周辺(痕跡をたどる)

藤ノ川小学校体育館の横にある倉庫、この場所は元機関車の車場だった場所。
大政支線はこの車場から奥に延伸して作られている。現在車庫の山手に郵便局があるがその東隣に官舎があったことが昭和24年の地元資料にある。機関士用だったのかもしれない。

雑誌『林友』によると機関車に関わる内容で「軌道(ガソリンカー)13,751m用井土場」と書かれている。

矢印は大政支線の軌道が大政方面に伸びる方向。支線跡は車道になっている。で囲んだところに軌道機関車の車庫があった。民有地を借用していた。(土地所有者さんと機関車に乗っていた穂﨑豊次さん談。)

近所の岡田昭子さんによると山師が足を運んだ飲み屋があった。令和元年頃建物は焼失している。

エンジン機関車が材を運ぶ様子

昭和10年撮影場所字入字 昭和4年森林軌道開通と藤ノ川小学校120年記念誌に掲載されている。

「私は機関車に乗ってました」と話をしてくれたのは、集会所近くにお住まいの穂﨑豊次さん95歳(取材当時)。お話によると16歳の時満州から母、弟の3人で引き上げてきた。営林署藤ノ川事業所の八木主任が「満州ではお疲れ様でしたね」と仕事をくれたそうだ。少年だったので山に入って各作業場のお茶を沸かす仕事をやり始めた。18歳になってから徐々に仕事を任され、機関車運転手の乾さんのもとで機関車運転手補助の仕事を行った。当時、藤ノ川では機関車は1輌だったそうだ。穂﨑さんはその後、営林署を退職し20歳で自衛隊に入隊。3年後また藤ノ川に帰って再び営林署で働き始め、結婚もした。奥様の定代さんは、「営林署を退職しているので臨時職員採用でした。給料が安く内職をして支えました」5~6年後、穂﨑さんは妻子を食べさせられないため、弟さんの誘いで求人中の尼崎製鉄(今の神戸製鋼)に転職した。林業などが斜陽を迎え、日本の産業構造が工業中心に変化していった時代を感じる話だった。

中土場の様子 (中央にあるのは集荷場)2022年10月2日撮影:藤ノ川では稲刈りの時期

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