市道は藤ノ川森林軌道本線と違う場所を通った

地形図中の★マークの場所が森林軌道と現在の市道が分かれる場所(寿荘より上流に約200mの場所)。森林軌道は現在の道よりおよそ10m高く、標高約70mの等高線に沿って橘大橋方面に向かって伸びていた。擁壁ができて軌道跡はなくなっているが、蛍橋の突き当たりにわずかに軌道跡が残っている。(⇩の場所)


地図の⇩の場所
蛍橋の突き当たりにある軌道跡。(写真の右、縦に写っているのが蛍橋)ミツバチの巣箱置き場になっている。向こうが藤ノ川方面で手前が用井方面。

蛍橋から突き当たりを見たところ。
矢印の場所が軌道跡。わずかながら用井に向かって標高を下げており左に低い作りになっている。

図の◆の場所。
軌道が標高を落としながら市道と合流したと考えられる場所。

左(上)の広場が用井の集材所。木々の向こうは四万十川。竹藪の間あたりから材を川へ移し筏を組んだ。

左(上)の写真は集材所を四万十川対岸から見たところ。樹木竹林で向こうは見えない。
十和村史には、「木材は用井に運ばれ筏が組まれ、四万十川で河口へ運ばれた」と記されている。 長瀬地区出身の70歳代の方の話では、祖父が筏師であり、用井から河口まで材を筏で運んだそうで、1日かけて下田から歩いて帰ってきていたとのことだった。四万十市中村名物「筏羊羹」の語源はこの様子からきているそうだ。昭和25年頃からトラック輸送が始まり筏は見られなくなっていった。また、長瀬地区の藤ノ川川向かいの山は国有林で、小学生の頃苗木植えを見たそうである。この木が大きくなる頃には大きなお金になると大人は言っていた。輸入材のせいか、その木は伐採されずにそのままだという。
筏羊羹のお店で双子の姉妹の妹さん(女将)に許可得て店内展示物撮影掲載。四万十川には材も鮎も沢山あった。包装紙にも筏が描かれている。昔は鮎がたくさんとれていたので、朝食で干物代わりに焼き鮎を食べていたそうだ。商品の「鮎もなか」のルーツを感じた。

用井の下流にあたる四万十川支流の目黒川や黒尊川では、川舟によって木炭や紙が運ばれていました。「センバ」(舟母)という大きな舟に積まれて中村や下田に送られました。「センバ」の川舟は長さ13m、巾2.1mある大きなもので厚さ4cm巾60cmもある杉の板でつくられており、一度に4トンをのせることができました。旅人もこれに乗って移動したそうだ。黒尊川の口屋内~用井~半家までに70艘の「センバ」があったそうです。木材は何十本も何百本もしばり合わせて川に浮かべ、筏を組んで運んでいました。 「西土佐のくらし」(S50)より
雑誌『林友』には「搬出系路、舟、筏45㎞下田」とある。以下、内容を掲載する。
昭和5年9月も木炭舟の運賃は用井から下田まで一俵一二銭であった。用井土場は、藤の川斫伐(はつりばつ)事業所の中継土場として昭和5年度開設されており、四万渡川沿岸の面積1,33㏊の土場で、筏の編場でありセンバの発祥地でもあった。用井下田間45㎞の川筋は木炭を運ぶセンバの白帆と筏の往来が相当ありのどかな風景が楽しめた。

四万十川に浮かぶ筏(西土佐村史より)

センバの模型(歴史民俗資料館蔵:旧大栃高校にて)
船大工が作った農業用センバ。構造は川センバと同じ。