10.その他(藤ノ川まつり、軌道の名残、寿荘など)

(1)藤ノ川まつり(小学校横の河内神社にて)

10月30日は「藤ノ川まつり」の日。土曜日(2021年)だったので現地を訪ねた。平時なら午後から神事を行い、夕方から夜店も出るそうだ。集落外に出て生活している人もこのときは帰ってくるので大変賑やかな年中行事とのこと。しかし、新型コロナウイルス感染拡大のため今年は神事の花とり踊りなどを縮小して、午後1時半から3時の実施だった。
12時半位から地元の人々がポツポツと境内に集まり始めた。大きなカメラと三脚を持った常連らしい撮影者の方の姿も見える。神輿も出て御旅所経由で帰ってくると花とり踊りが始まる段取りとなっていた。この一連の行事予定の担当者が藤ノ川軌道の案内者である阿部敦雄氏だったので、事前に知ることができた。また、阿部氏の知り合いでインクラインの案内者である武内幸男氏や同じく大政支線を案内してくれた稲田美文氏も社殿の鍵を持つ神社総代として参加していた。まつりの寄付奉納(御神納)を募っていたので私も奉納させていただいた。

左(上):準備中の境内に数人の見物客
下:御神納者は、社殿の軒に名前と額 が張り出される

河内神社 には大きなナギの木や、江戸期に庄屋を務めた今城又兵衛の石碑がある。ここには、集落にあった複数の神社を集め合祀しているとのことだ。堂ヶ市地区で見つかった分銅形石斧は同神社の宝物となっている。また敷地を囲む杭にはレールが使われており、様々な時代の物が存在している。

地元の人々が集う神事
社殿内の黒板には、合祀したとされる藤山(岩間沈下橋に抜ける峠道にある山)の加茂神社にかかわる内容などが書かれていた。

奉納の舞をする子ども達の写真を撮る阿部敦雄氏と武内幸男氏

御神輿の登場
神輿の担ぎ手不足の対策として作られた、車輪付きの神輿台車。宮司さんを始め、まつりの中心関係者と踊り手の手で神輿が押され、御旅所に動いていく。

鳥居をくぐる時のハプニング。
神輿台車の車高が高すぎて神輿の上についた鳳凰が当たってしまう。そのため、くぐるたびに外して付け直す恒例行事。
右の端で神具をもっているのが大政支線を案内してくれた稲田美文氏。

左(上):藤ノ川橋をわたる神官さんと神輿
虫木山支線の本線合流点を教えてくれた岡田さん宅前の御旅所で神輿が3回転して戻っていく。

もう一つ立ち寄る場所は藤ノ川の開拓はじめの地とされる消防屯所近くのハゼの木がある場所。
子供も花とり踊りの前半参加。阿部さんの太鼓で踊りが進んでいく。今回の演舞は縮小版だった。

最後はもち投げで終了した。

記念写真を撮るのは武内幸男さん。

みなさん、お疲れ様でした。

(2)軌道から車道へ
①現在の市道に残る軌道跡

上流側から見た軌道跡(上)と
下流側から見た軌道跡(下)
大きく川側に迂回している。道幅もまさに軌道の幅である。

②森林軌道の車道化(拡張)
昭和22~23年頃、営林署から軌道廃止決定が伝えられた。それを受けて軌道跡の道をどう作るかについて藤ノ川の人々は昭和25年にかけて話し合いをし、稲田美文氏の家に各地区の代表者が集まり、何度も話し合いを重ねた。氏は、祖父が道作りの予算の相談や陳情のために高知の本署や、東京の農林省に足を運んだと聞いたという。拡張の道作りは約15mごとに住民が日割分担しながら行ったという。ダイナマイトを使ったこともあったようだ。軌道を利用しながら拡張工事を行わないと、廃線と同時に車道として使えないため、トロッコが走る傍ら拡張工事が行われた。拡張工事が完成した時点でレールを外し、スムーズに車道に変えられるように苦労したことがうかがわれる。西土佐村史によると工事は昭和24年に巾員3.6mの改修工事に着手、27年に完成と書かれている。

③はずされたレールの一部は地元で使われた
河内神社の敷地と車道の境界杭をはじめ、小学校西側の旧公民館(昭和34~35年、青年団が山から木を切ってつくった。)の花壇の柵や、河内神社の北向かいにある山(「さらがみね城」があったらしい)の中腹にある旧教員住宅(昔の小学校跡)の手すりの杭にも使われている痕跡が残っている。

河内神社の車道と境内の境界杭に使われているレール。

山の中腹にある旧教員住宅と坂道は柵の支柱に レールが使われている。

小学校西側にある青年団が作った旧公民館
山から木材の切り出しも行った。

旧公民館の花壇の柵(金網支柱)がレールでできている

藤野川(藤ノ川)線は明治32年、個人がつくっていた木馬道(だちんうま)を林道として手を加えました。しかし、道巾がせまく路面も悪いため木材を運び出せても、生活物資は岩間(沈下橋がある場所)からの坂道を利用しなければなりませんでした。昭和5年今の道路のところへ森林軌道がつき、トロッコが走り出して木馬道(だちんうま)は使われなくなりました。昭和24年から巾3.6mの道路につくりかえる工事にとりかかり、27年にできあがることでトラックが走るようになりました。この道を走りはじめたころのトラックは1トン積みぐらい、バスは6人乗りで大変小さいものだったそうです。
「西土佐のくらし」(S50)より
付録:当時の山の仕事サイクル
植林は12~3月。伐採は冬に行い、夏は樹皮を剥いで白木にした。

(3) 寿荘
用井から、藤ノ川集落に向かう途中長瀬地区を少し過ぎたあたりに市道から降りる形で「寿荘」(宿泊施設)の看板がある。藤ノ川の森林軌道を調べる際に泊まってみた。年配のご夫婦が運営されている。宿泊代(2食付き)は少々高めだが、地元ならではのものが使われた夕食が味わえた。

泊まったのは6月20日。女将が淡々と案内と説明をしてくれた。「少し前は蛍が川の上を沢山飛んでいたけど今は、カジカガエルの鳴き声だけだよ」「カラオケやるなら近所に家はないので大きな音で大丈夫だよ。コロナウイルス感染症が出る前は連休はいつも家族連れで予約がいっぱいだったけどね」「今日?女性が一人泊まるから別棟にしたんで、お客さんはおっきい部屋で一人で泊まってもらうね」「お風呂、お湯ためるので30分したらこれを止めてね」と操作方法を教えてくれた。

天然石を貼り付けた大きなお風呂と木の板のフタ。どちらも手作り感があり、印象的。

部屋には流れる川が見られる桟敷がある。

夕食に出たアメゴとテナガエビや山菜。揚げ物には寿荘の敷地に自生しているユキノシタがあった。焼き立ての鮎も出てきた。
食事をしながら森林軌道のことを尋ねたが、女将は藤ノ川出身ではないので分からないという返事が返ってきた。

付録写真 小学校付近と山父支線跡三ノ又の雪景色(2022年2月6日撮影)

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